■柔らかな熊野筆(灰リスの毛)
今年は東北関東大震災という大災害に見舞われ、多くの犠牲者と壊滅的な被害があった。 なでしこジャパンのワールドカップ優勝は、被災から立ちあがろうとする被災者はもちろん、我々に大きな勇気と感動を与えてくれた。メンバーには国民栄誉賞が贈られ、その記念品として贈られた熊野筆が話題になった。熊野筆は広島県熊野町で生産されている筆で、肌に優しく、化粧用としては最高の品物とのこと。この「小さな発見」の最初に、コリンスキーの筆を取り上げたこともあり、なんとか観察できないかと思った。その熊野筆を使っていると自慢した友人に懇願して、愛用のパウダーブラシから4本を切り取らせてもらった。今回はその観察結果を報告する。
図1はご自慢のパウダーブラシで、肌触りがとても柔らかであった。購入した店の説明だと、毛は「灰リす」の毛であり、職人が毛先を揃えて束ねたとのこと。さらに調べると、灰リすの尻尾の毛が使われ、中国や北アメリカなどから輸入されている。図2は切り取った灰リすの毛の一本(毛A)をデジタルカメラで撮影した写真である。ブラシの毛は山形に揃えてあり、中央の毛の長さ(毛丈)は約55mmであった。端の毛は少し短く、ハサミで切り取った毛の長さは、約32〜34mmであった。 毛はパウダーが付着している可能性があるので、シャンプーの水溶液に浸し、音波振動を与えて洗った。しかし、貴重なので強く洗えず、完全に付着物を取り去ることはできなかった。その試料(毛A,B,C,D)を使って、コリンスキーの観察のように、表面と断面を観察することにした。SEMの制約から、毛を安全剃刀で5〜7mmの長さに切り取り、試料台に固定して端を観察し、次にその端から切り取りながら、その断面と表面を観察した。 ・灰リすの毛Aの観察
図3の上は図2で示した毛Aの全体像で、それを安全剃刀でP6,P7,P8,P9の位置で切り取り、切り取った試料(C1〜C5)を順次観察した。また先端のC1試料については、観察後、P1,P2、P3,P4,P5の位置で順次切り取り、断面と表面を観察した。今後、毛の観察位置をP0〜P10の記号で示すことにする。観察に使っているSEM(TinySEM)では、棒状の試料台(サイドエントリー)を360°回転できるので、試料の回転をすれば、同じ場所の表面と断面が観察できるので便利である。 柔らかさの秘密を調べるため、まず毛先から観察した。その結果を図4,5に示す。
図4,5から、毛先は棒状であり、表面にはキューティクルがあることが分かった。毛先は非常に細く、約7μm径であった。 次に図3で示した先端(P0)から、切り取った毛の根元(P10)までの各点の表面状態を観察した。比較しやすいように、P0からP6までは同じ倍率で表示した。
先端では約7μm径の毛は、根元に行くに従って太くなり、先端から3cmくらいの場所では、約80μmの径になっている。表面のキューティクルは、どの表面でも周期はほぼ同じで、5〜10μmの間隔である。 次に各位置での断面観察の結果を示す。
図14〜17を比較すると、先端から約2mm下のP2点までくらいは、断面は円形に近く、中心部は、少し柔らかい組織になっていることが分かった。P3位置より下では、断面は楕円形になり、さらに中央部(P5〜P8)では中央部が狭い「ひょうたん形」になっていて、根元に近いP10では再び楕円形になっている。P3から根元までの断面は、ホースのようなパイプ状になっていて、その肉厚は、3〜8μmである。中身は薄い膜で仕切られた空孔からできている。空孔の大きさは10〜20μmである。 ・灰リすの毛B,C,の観察 観察を一応終えて、疑問が生じた。それは、他の毛が混ざっているのではないか、同種の毛でも、形が違うものがあるのか、先端が切り取られていないのか、という疑問であった。せっかく貴重な熊野筆の毛をいただいたので、他の毛についても観察をすることにした。 図18,19に毛Bの先端部、図20,21に毛Cの先端部を観察した結果を示す。
毛Bの先端は毛Aより細く、約5.3μmである。先端を斜め前から観察すると(図19)、毛A(図14)と同じように、ぼつぼつした構造である。さらに毛Cを観察した結果を図20,21に示す。
毛Cの特徴は先端15μm領域が割れているようであった。斜め先端から観察すると(図21)、何らかの衝撃でこの部分の円柱の半分が割れて無くなっている事が分かった。図20,21の破断面から、毛の長さ方向に約0.5μm径の串状の組織が束ねられていることが分かった。いわば、竹製の釣り竿のような構造である。 観察したいずれの毛も、先端が切断されていなかった。このことから、熊野筆は職人が毛先を揃えて束ねていると言われていることが確認できた。すばらしい技術である。 次に、毛B,Cの断面形状についても調べた。毛先から円形、楕円形に変化する様子は毛Aとほとんど同じであったが、P6〜P10に対応する場所(Q6〜Q10)のひょうたん形が著しくひしゃげていたので紹介する。
図22,23に示すように、毛BではQ8,Q9の位置でひしゃげて、Q9では板状になっている。しかし切り取った根元部分(Q10)では再び円状になっている。 毛Cについて観察した結果を次に示す。P6〜P10に対応する場所、R6〜R10の断面像を示す。
毛Cでも、R8と根元の近傍R10ではかなりひしゃげたひょうたん形であり、R9では板状になっている。 毛A,B,Cについて、どれも先端付近で円形の断面が、根元に行くに従って内部に空洞ができ、円形がひしゃげた形状になっていた。心配になったのは、空洞がある毛を切断する時に押しつぶして形状が変わったのではないかということである。そこで、最後に残っている毛Dを光学顕微鏡で拡大して観察した。その結果を図26に示す。
図26は、根元近くの太く見える部分の拡大像である。図の上部の写真は、ひょうたん形になっていると思われる視野で、中央が陥没しているのが分かる。また下部の視野ではテープをひねったように見え、毛が板状になっているのがわかる。この事から、灰リスの毛は、筆の状態で、すでに根元近くで、ひょうたん形、または板状の断面になっていることが確認できた。 ・コリンスキーの毛と灰リすの毛の比較 前回水彩画の筆から切り取ったコリンスキーの毛と、今回観察した化粧用の筆に使われている灰リすの毛を比較して考察した。 インターネットで熊野筆のホームページを訪問すると、化粧用の筆の毛は用途に応じて種類が選ばれていた。灰リすの毛は、毛質がふわっとして柔らかく、とても繊細で肌あたりが良いという性質から、高級なパウダーブラシ、すなわち粉状ファンデーションを肌に乗せる(塗る)のに使われている。他方、コリンスキーの毛もいくつかの目的の筆に採用されている。コリンスキーは主にリップブラシに使われている。リップブラシは液状または練り状の口紅を唇に塗る筆で、塗る機能と輪郭を描く機能が必要になる。これは水彩画用の筆と同じような機能を求められている。 以上のような求められる機能と観察した形状との関係を考察した。 図27,28は、すでに観察したコリンスキーの毛と今回観察した灰リすの形状を毛の中央部で比較したものである。
図27は表面構造を比較した写真である。灰りすの毛はコリンスキーの毛の約3分の2と細く、キューティクルの周期はコリンスキーの3倍、すなわち粗い事が分かる。水分の含み、濡れ性は、毛細管現象からキューティクルの間隔が狭いほど優れていると考えられるから、コリンスキーの毛の方が優れていると考えられる。図28の断面の比較をすると、いずれも楕円形であるが、灰リスの毛の径は、コリンスキーのおよそ3分の2であり、肉厚は3分の1と薄いことが分かった。コリンスキーの毛の先端部を別途観察した結果、先端は円状で、その直径は約6μmで灰リすとほぼ同じであった。またコリンスキーの毛を図26と同じ倍率で光学顕微鏡で観察したが、陥没しているような像は認められなかった。いくつかの断面を観察したが、すべてが楕円形であった。 このような観察から、コリンスキーの毛は直毛で、竹製の釣り竿のような構造で、パイプ状であるため、弾力性があることが分かる。このことは、コリンスキーの毛は濡れ性が良く、輪郭を書いて塗りつぶすのに適している性質を持っていると考えられる。 他方灰リすの毛は、濡れ性はあまり良くないが、先端から約2cmより下方で、断面がつぶれている傾向にあることと、毛が下部まで細いことから、弾力性が弱いことが分かる。このことは灰リすの、柔らかくて肌触りが良い性質を作っていると考えられる。濡れ性があまり良くないことは、粉を肌に乗せるに都合がよいのかもしれない。 以上の考察により、コリンスキーの毛や灰リすの毛が、その性質を上手く活かして各種の筆に使われていることが理解できた。 −完− | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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